KEIKO KOMA Webサロン

尊い一年の始まりをありがとうございました。


元旦のお餅つきはYouTubeにて、そして2日3日は京都にて先生と高麗さんまた皆様と本年の三が日を過ごせましたこと心よりありがとうございました。
昨日は京都八坂にて先生のお善哉とコーヒーを頂けました。透明感に満ち、同時にしっかりと身体に染み入る体感に感動致しました。
昨年末、私にとって大変大きな気づきを得る機会がありました。
長らく、おそらく生まれた時から、もしかしたら生まれる前から、、と言いたいほどに私は私の身をモノとして生きてきたのだと気づきました。自分をモノとし、人との関係に於いてはモノにされ、そして私自身、他者をモノとしか感じていないそのような本当に本当におぞましい愛など成立するはずのない非人間的在り方であったことに気がつく機会が訪れました。生命の尊さに気がつくことなく、自分が本当に大切にされているのかされていないのかすら分からない感覚に支配され長く生きていたことから目が覚めたのです。これまでの関係はそれをもって変容し、まさに内的環境は外的環境を変えはじめています。
その気づきを得、さらに生命の奥には日本人である源を12月の連続コンサートにて経験してから、自分自身の裡には大切な宝物を秘めているのではないかとふとした瞬間に感じるのです。


そして迎えた新年でした。まず昨日の存在論についての経験を表現させていただきそして一昨日の応用コースでのことを書かせていただきます。
昨日の存在論での論理の展開はなんと美しく素晴らしいのかと感動致しました。先生は「魂(プシュケー、心、霊)」「弁証法」「愛」そして「死」と白板に書かれました。そしてそれら全ては「ひとつ」と宣言されてから上記に並べた順番にお話は展開されました。社会的環境、見た目、外部、外面に対して、魂は内面のこととしてお話されました。魂とお聞きするとまさに女をモノとされているという状態は魂を無視された状態であることを感じました。見た目や感覚も含めた肉体的なことよりなく、魂はことごとく無視されてきたことを感じました。続く「愛」は、愛を経験し愛を実現しようとする働きは魂以外の何ものでもないことを感じました。そしてさらに続く「弁証法」について。人との関係において、成長していく過程は弁証法的であることが愛の実現と理解しました。自分自身の業に気が付きそしてそれを乗り越えていくプロセスは人との関係の中で起こります。まさに私自身が魂を無視しモノとし生き他者をモノとし扱っていた状態に於いてわからなかった生命の尊さを、今は生命でわかるというこの新たな感覚を手に入れたプロセスは弁証法的に表現できることです。乗り越えるまでのプロセスは決してすんなりいくものではありませんでしたが、今となれば、乗り越えたのちには、今まで知らなかった喜びを経験しています。愛なくしてはこのプロセスを実行することはできない、まさに弁証法的プロセスは愛と感じます。ここまでの先生のお話は時を忘れ夢中になってお聞きしていました。ここまでは全てひとつと理解できました。しかし、「死」についてお話が及んでから突然頭のてっぺんに輪っかがかかり思考停止となってしまいました。死をどう理解するかが問題であることは冒頭にお聞きしていました。死はわからないものとされ宗教によって片づけられてきた歴史また観念に触れていることは体感として感じました。死後の世界を認めるか認めないかから始まり、死を考えると必ず滅ぶ肉体と永遠なる魂が問題となり、魂と肉体は別々のものとして私の観念にはしっかりと染みついていることを感じました。肉体だけを肯定すれば魂を失いモノと化し、魂を立てれば肉体は魂を実現する手段に成り下がる、この二つがひとつであるということが私の頭には入って来ず、これ以上はついていけないとお手上げ寸前で先生にお声をかけていただきました。先生の仰るとおりこの2つがひとつでなければ、先に展開されたここまでの論理に筋が通らないことは感じました。先生は実態についてお話しくださいました。亡くなった方の魂は亡くなった時の状態のまま在るという実態をお話くださいました。このことはまさに肉体と魂がひとつであることを示していると理解しました。とすれば、宗教で表現される死後の世界は否定されることになり、私にとっては驚くべきことでした。まだ理解は不十分とは感じますが、分かれば今まで乗り越えられなかった何かを越えられる重要なこととし感じるままに講座は終了しました。
存在論の前日には、人々全般にある思考停止の元には憲法の問題があることを知りました。日本国憲法の3つの基本原則など、こういうものであると教育され、実態が何であるのかを分からないままそれ以上疑問に持つことも考えることもない状態が全般的な思考停止のもとにあるとお聞きしました。自分が生きている社会環境のことをいつかきちんと理解しなければいけないと思いつつもなかなかこれまで自分のこととして考えて来れなかったことをきちんと学んでみようという気持ちになりました。つい先日まで高校時代の公民の資料集だけ数学や科学と合わせて捨てられずに持っていました。中高時代1番よくわからなかったのが公民で、しかしわからないままであることは問題だと感じることからいつか勉強しようとせめて資料集は捨てずにとってありました。しかし学校教育ではわかるはずがなかったのだとこの度わかることができ、本当はなんであったのかを理解する勉強に取り組む意思が生まれました。
ひとつひとつ先生が解明してくださり、感覚の元になっている自分を覆っている枠が剥がされていく講座そしてコンサートがあるので、身となり生命となる勉強をしていけます。

最後に高麗さんのビデオ講演会をお聞きしていると不思議と内から生まれてくる気持ちがあり、そして諦めかけていたことに、もう一度向き合ってみたいと意思が生まれました。生と死を分ける分岐点にこれまでは運命の壁があったわけですが、運命が解放された私たちの生命は、絶えず生きる方向を見出し可能性はいつのときも開かれていること、その希望の光を高麗さんのお声から感じると同時に私の意思は決まり決断していました。未来への選択として正しかったことは今日さらにはっきりとし、喜びが生まれます。


新年の始まりからとても重要な気づきを得、正しく生きることの道をつくってくださっている先生と高麗さんのお働きに心より感謝致します。

ありがとうございます。

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京都コンサートホールにて
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「胎動」第4弾