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存在論


高麗恵子スカイロケットセンターでのボランテイアミーテイングにて我のこと、事実を認めることから始まることをお話させていただいていたので、今日の「存在論」は手に取る様にわかるお話ばかりで苦笑いするばかりでした。皆の話を聞いていると、我と事実を受け止めずに、言葉だけが先行し、滅びへと向かっていると見えたからです。そして私も我が強いとお話させていただいていましたが、今日の「存在論」にて、見事なまでに我についてお話いただき、笑うよりなく、胸がすく思いでした。本当に我が強いことで困っているわけではなく、まだ余裕があるとのお話も、自分では限界となっていると感じていたので、まさかと考えましたが、確かにまだ余裕があるのだとわかってきました。最近はこのままでは死ぬよりないと感じる程、限界を感じていましたが、まだある余裕の意味も感じています。

現状が厳しくなっていても皆が厳しいので、気づけない。ある時、一気に崩壊するとのお言葉はスペインに行き、日本に帰国した時に見える様にわかり、身震いしました。危機に気づけないことは真に危機であることも日に日にわかってきました。そして自我の危機も気づきはじめたのです。自我は役に立たなくなったとは甚くわかります。生命も生きていけないことも身にしみ感じています。その原因をお聞きでき、頭が整理でき、抜け出し口も見えました。大変ありがたい「存在論」でした。

デカルトの二元論が間違いであることは、頭と体を分けていることとのお話によりよく理解できます。いだきでは頭と体は一つであることを取り戻す経験をさせていただいています。体と精神は別のものとし生きることは限界です。AI が進むと滅亡するとも、うなづくことであります。頭と体が別々であり、人間の体を機械の様に見ているとのお話は、我について理解していく時に気づきました。機械の様に扱われてきたことが限界となり、余命二ヶ月の生命となってしまったのだとわかりました。先生に出会い、頭と体が一つであることを取り戻し、生命助かりました。頭と体が一つになると交流する生命であることも経験できる様になりました。今の時代は、自分の頭も体も自分だけであり交流しないということも甚くわかります。その原因の一つは育児法にあるとは驚きでした。生まれたばかりの赤子を保育室のベットに入れ母親と隔離していく育児法により、機械の様に育ち、人間をコントロールしやすい仕組みとなっているとは、よく見る場面でしたので、恐ろしいと感じます。赤ちゃんがおっぱいを飲むことが一元論の状態であること、お風呂も母親が入れればいいけれど、他の人が入れると関係が切断されるとは、驚きながらも納得できるのです。産んだ母親の皮膚に触れることが大切であるとのことも、一元論で考えるとわかるのです。

全体性を取り戻すよりないことは理解できました。そして先生のコンサートこそが全体性を取り戻していけるかけがいのない経験であることが生きる希望であります。全体を感じて、一つでも言葉が生まれれば、世界は変わるとは驚喜しました。ちゃんとした言葉を使えないといけないこと、自分の言葉であり、人と交流し綺麗な言葉を使うこと、変な言葉は我から生まれていること、そして言葉は人と交流する為にあるとお聞きした時には、感動し、胸のうちに喜び広がりました。乱暴な言葉で、人の関係を壊していく場面をよく見ます。言葉は人とわかり合う為にあると考えている私は言葉によって人との関係が壊れ、全てを断ち切っていくことが不思議でなりませんでした。やはり言葉は人と交流する為にあると先生からお聞きでき、胸がひらきます。

世界の危機を甚く感じる私は生き方も動き方も変え、先を創ります。今日は、スペインでの作品展にて内面の美しいことが平和を作るとどなた様にも申し上げてきたことをさらに広げていくことをすればいいと見えました。そして発信することも示されました。私がお告げと表現することです。早速実行し、次へと向かいます。日頃、苦しく感じたり、なんとかしたいと考えていることの理由、原因を教えていただき解決の道まで示していただき、真にありがたく、感謝申し上げます。ありがとうございます。

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動くのが好き
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高麗恵子スカイロケットセンターにて
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比叡平 工房より