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名月楽しみ、存在を問う


昨日の存在論にて質問させていただき、いだきしん先生のお答えから展開した三島由紀夫さんの文学と人間としての生き様についてのお話は「本来性があらわれる」「存在をあらわす」ことについて深く考える経験となりました。考えてみれば先生から何度か伺っている文学についての中心テーマでもあられた三島さんのことですから、存在そのもののど真ん中をお話いただいたと感じます。先生は文学をやるなら三島さんの「後」を書くしかないと考えておられたとのこともお聞きしました。その後、ピアノとの出会いで「いだき」を始めることになられた先生の存在、生き方を何とかして表現したいと考えてきました。飛び切り難しく途轍もなく大きな課題ですがこの課題は「いだき」を生きる上で自分には必須のことと感じてきましたし、今もずっと求めています。

批評を文学に高められた小林秀雄さんのお話も出ました。私は山口での学生時代に小林さんの「様々なる意匠」「Xへの手紙」「故郷を失った文学」などにとても共感し、初めて一人の文学者の全集にチャレンジしました。今、振り返れば小林さんとの出会いが自己(存在)への問いのはじまりだったと考えます。詩人中原中也さんとの出会いでとことん自己の存在を問うことになった小林さんが小説を諦め、批評という新しい文学のジャンルを創造されていったプロセスはかなりしつこく追い、わかればわかるほど共感は強まりました。中原中也さんは山口市の湯田温泉が故郷で詩人の魂そのもののような詩人だったこともあったのでしょう、夭折し、中也が大の苦手だった小林さんが碑を建てるために中也の死後に訪れていました。

舞台は東京ですが、小林さんと小林さんの周りに現れた文学者やご家族、骨董や音楽に関わる人々、女優さんと中原中也と小林さんの三角関係などなど・・、小林さんを通して作家と実生活というテーマにも出会いました。ドストエフスキーやトルストイのロシア文学はこの時期に触れます。今思えば、ロシアの大文豪たちの作家と実生活は「男と女のある何か」を考える格好の反面教師的な事例集!? のようなものでした。人間臭い大文豪たちの奔放な実生活はあまりにも作品と乖離しているかのように感じましたが、だからこそ本質が書けるのもよくわかりました。当時は他者との関わりから自分の個性(存在)をわかっていき、はじめて「主体性」「自律」ということが生まれるとの仮説を持ちました。自分自身はというと、入る前も入ってからも寄り道をした上に大学を出てからも敢えて就職せず、今で言うフリーターのような生活をはじめました。今思えば、何もない自分からスタートする人生を踏み出していました。山口大学入学からフリーター生活の約10年間、テレビも持たない生活をしていましたが、お酒の縁あって29歳で突然テレビ局に入ってしまった運命の不思議を感じていましたが、テレビ局は6年後に先生と高麗さんに出会うためにあったと今、振り返ります。

主体性や自律は未だにメインテーマですが、当時はドストエフスキーやトルストイについてはキリスト教を知らないと理解できない、と、それこそ小林秀雄さんの書かれた本を読み、慌てて聖書などを読んでみましたが、それまで全く縁がなかった聖書の世界への突然の入門には無理があり、全く手がつかず、神の存在についての実感、認識共にゼロ状態でした。そしてその私が いだきしん先生と出会い、愛に始まり長い時間を経て今、先生から次々と教えていただいている「いのちのちから」と「神」、「人間」の関係について少なくとも自分で考えるようになっていることに隔世の感を感じます。主体性、自律については神の存在知らずしては行き着かないテーマであったことを今は確信します。そして神とは?との大テーマをしっかりと理解する時にあります。日本の神々に大きなヒントを感じます。一昨日の応用コース、死についてを経てやっと人間としての入り口に立ったと感じた昨日の存在論でした。いつも尊い経験の場をありがとうございます。

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