KEIKO KOMA Webサロン

一流とは


コンサート会場へ入った時の違和感から、ああまた私は勘違いしているという自己嫌悪だけは理解しコンサートが始まりました。メッセージをお聞きして自分を『自己のこだわりに逃げるより生きる術がない』状態と感じ『わかっていてもそうなってしまうんです』というしかなく、叱られているようで辛くなりました。バートランドラッセルという哲学者のお名前を知りました。

第一部の演奏では聖なるものから叱られているという感じをずっと受けながら、同時に外で受けた『おまえなんていなくなればいい』と剥き出しに嫌われる感じにはどうしていけば良いのだろうと考えていました。こんなに嫌われては人とともには生きられないと思いました。『そのふざけた態度を正してやる!』という嫌悪に飲み込まれ小さくなりたくとも、もう40歳にもなった私は濃く現れ出る自分を消すことが出来ず申し訳なく、痛く、ヒリヒリする。演奏は、ただそのまま聴けるよう座っていました。消せないものは仕方が無いんだから、消すことを考えるのではなく賢くなり、消さずに残ったものを更に研ぎ澄ましていけば人とも関われるし生きていけるという感じを受けました。自分に何かしら人を不快にさせるものがあるということと、内的環境が外的環境をつくるので、私が私を嫌悪している顔が外側にあらわれたのということ、どちらも常に清め整理しながらでないとすぐに現象としてあらわれます。嫌われるものがあるから嫌われるので、存在消すのでなく自分の嫌われるものをなくしていくことが、考えることであり解決、生きることとわかりました。

第二部では頭では『これからどうしていったらいいんだろう』と汲々としたものを感じながらも体は大いなる愛に満ち満ちていきました。高麗さんの書き込みから『豊穣の』という表現のあまりに細かく的確であることに目眩すら覚えます。そんな。優れた文学者はどうして優れた言葉を使えるのだろうか。周りにわからないからこんなことしても仕方ないとは思わずに一流となっていくのはなぜだろうか。

アンコールは『この状態で生きれば良い』という畏れ多い演奏で、ずっとこの存在に渇を入れ続けられることを望まずにおられない一瞬一瞬でありました。

コンサートは、その時だけで成っているのではなく、先生の日々や在り方、自然、宇宙、すべてを通じて成っていることに、ありがとうございます。

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三鷹市芸術文化センター風のホールにて
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高麗恵子ギャラリーにて
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