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“トカトカトントン”


夜道をトントン歩いて帰る。意外に響かなかったけれど……。太宰治の『トカトカトントン』という作品を思い出す。あの音は、主人公に熱意を覚ます響きのように描かれていたが、キリストが磔にされるときの釘を打つ音であり、それを聞いて、主は復活された、という解釈が下敷きにもなっているらしい。誰が鳴らしているのかわからない、「主語のない音」なのだ。

金谷武洋さんに『日本語に主語はいらない』という本がある。そして、たしか英語が「する」言語なら、日本語は「なる」言語だといわれていた。日本語が非論理的という100年の誤謬を糺した本で、わたしも随分考えさせられ、しかし、それはそうでも、何とか世界に通じる日本語を創出していかねば、一人使命感に燃えている。世界に日本語を広めるのでなくて、日本語で書いても、世界の人に通じる文章にしたいのである。新聞などは、日本人しか読まないと思っているから、その社説は、外国人には通じないのである。それには、5W1Hをはっきりさせた、責任のある発言であること。「ほんとう」を伝える、感性の味付けのある記述が必要であると思っている。だから、「お会計は1000円になります。」という表現が気になって仕方がない。「ドアが閉まります。」でなくて、「ドアを閉めます。」ではないかと、電車に乗るたびに腹を立てている。
「主語は自然!」という昨日の先生の言葉をなるほどとお聞きしながらも、主体性や責任を個人に確保しておきたい気持ちがあるからかもしれない、思わず質問してしまった。先生が温かく受け止めて下さり、いろいろフォローして下さるので、うれしくてならないが、もう少し、この問題を持ち続け、考えていきたいと思っている。ありがとうございました。

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