KEIKO KOMA Webサロン

「良心」と「負い目」は存在の宿命?


存在論で初めてお聞きした「負い目」という言葉が一昨日以来ずっと気になっています。「負い目」を呼び起こす「良心」。しかも存在論で使われる「良心」という言葉は一般的な道徳的な「良心」とは全く異なるもので「無」から生まれるとのことです。

存在論の後に先生のお話を理解するために色々と調べていますが、ハイデガーについて書いておられる評論家などによると「良心」は「良心の呼び声」とも言われ、ただ「現存在」の本来的なあり方に気づかせるだけのもので、一般的な「良心」という概念が善悪や批判的な意味や警告などを知らしめたり、人の評価や価値付けをするような意味は一切なく、ただ人が「現存在」に戻るための「呼び声」の役割を果たすような言葉であるようです。

いだきしん先生の講座では、「良心」は人との関係性を通して表現され、存在を理解するとても大事な言葉としてしっかり自分の存在の根幹に根付いてしまいました。「無」から生まれるものだからこそ存在の根幹と感じますし、先生が「無の中に真理はある」とおっしゃった意味もそういうところにあるのではないか?とずっと考えています。

「負い目」はさらにわかりにくい言葉です。「引け目」や「やましさ」と重なるようで実は全く異なる意味があって、自分で選んで生まれてきたわけではないこの世界に放り込まれて、人との関係無しに生きれない人間としてのどうしようもなさ、というか、両親、兄弟、家族、親戚、地域の人々、恋人、・・・と生まれてから次々と出会っていく人々との関係性をどうしていくのか?どうなっていくのか?自分が選んだわけでもなく、責任があるわけでもないのに関係性が生まれてしまうこと・・・・・・・・。

一昨日の講座では先生が老人ホームの酒飲みじいちゃんとお互いの存在を認め合う関係を創っていかれたそのプロセスが「負い目」というあり方、「現存在」のあり方がとてもわかりやすかったです。しかし、本当はとても理解し難い「不意打ち」のような「人と人の関係性」を表す状態をそこに見出します。存在の宿命とも言えるでしょうか?

昨日の「死について」でも「良心」と「負い目」ということが根本にある「死」に際しての人と人の関係性のお話であったと感じますし、「良心」「負い目」を真面目に追求し、「現存在」として生きてこられた 稀有な存在、いだきしん先生の「IDAKI」を学んだ大変濃い二日間の三つの講座でした。
いつもありがとうございます。

KEIKO KOMA Webサロン
東京高麗屋にて
KEIKO KOMA Webサロン
京都事務所にて
KEIKO KOMA Webサロン
盛岡市民文化ホール 大ホールにて