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「宗教的」について


人が動く真の原動力は宗教的であり、何かや誰かへの真の信頼が基にあるというようなお話を先生がされたと知り、以前から気になっていたことを考える機会になりました。

自分自身がいだきしん先生への真の信頼を基に動いています。その背中を見、生きる指針とさせていただいていますが、先生ご本人は他者が先生に依存することを否定されています。わたしはそこが「世間的に言われる宗教」ということでいうと「いだきは宗教ではない」と当初から考えてきました。しかし、その反面で自分が先生に依存していると一般的には「いだきは宗教だ」との印象を与えてしまうと感じてきました。「自分に問う」ことを徹してやれぬままに講座、コンサートを待ち、先生の答えを待つ身が長く続いた時期は自分は最も「いだき」から遠い存在と感じ、随分長い間この限界を脱し切れませんでした。

講座での「先生の答え」は「先生の問いの答え」なのに、わかった気分になって意気揚々として会場を出る。しかし、翌朝にはいつもの日常に戻ることを繰り返してきました。自分自身から発した「問い」でない限り、自分への「答え」にはなりません。わたしの場合、これは先生への依存です。先生が自らに問われ、答えを出されたプロセスをお聞きし、自分自身で自分のことをやる人生に突入しない限り、「思い」は重く重く自分自身の身体を蝕んでいきました。そしていつしか質問が全く出てこない日々が続きました。自分への問いかけを置き去りにし、先生の生き様を勉強することが「いだき」と安穏としている状態に陥っていきました。

真の生命の要求からの乖離に日々呻吟しましたが、その自分の状態こそあらゆる存在と生命交流してしまう先生の生命に負担をおかけしてしまうこともわかっていました。かといって先生から離れたらそれが解決するものではないことも理解していますので、道は一つしかありません。「早くわかること」です。「父親の言うこともきかないのに何であんたの言うことを聞かないといけないのか」と目に見えない存在と格闘する先生のご経験を何度も伺いました。「全ての存在から見放された時、それでも俺は俺だ」と自らに問い、答えを求めて格闘されてきた先生のご経験も何度もお聞きしてきました。他人事ではなく自分事として生きるより人生を分かる方法はない。王道はない・・・。

学生時代、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読んだ時、人間には自由に生きることへの恐怖があることを知りました。しかし自律し、自由に生きる魅力は自分の生きる方向だったのです。意識の問題や社会の体制、権威、権力、人間心理、家族、女と男、お金、・・・胎児期、幼児期・・・、いだき。

「宗教」については「依存心」が間違いを起こしているとは考えていましたが、「依存」と「真の信頼」の違いがずっと混沌としていましたので、あらためて考える機会になりました。

弘前での爆発的でエネルギッシュな高句麗伝説を経験させていただき、その場で手にした天運コーヒーをいただきながらこのような時をもてる幸運はまさに天運と感じます。
ありがとうございます。

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