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「頽落」について


ハイディガーの『存在と時間』38節「頽落と被投性」のところを読んでみた。
「頽落」とは、「なにかのもとに没入していること」、おのれ自身ではない「完全に心を奪われている」ことをさすとのことだが、それがいけないとも書いてないので、いや、「頽落することができる」ことが「日常性」の変容とつながるともあるので、目が回る気がする。しかも、「多面的な好奇心」「休みない多識」は存在了解の思い違いだとある。
いくらまじめに家計簿をつけ、日記を記し、読書に心がけ、世界と他者に関心を持ち続けていても、それだけでは「大いなる存在」に近づくような変容にはつながらないということか。わたしは少年時代、結構鉄道ファンで、東京都内の全路線と駅名を暗記できていた。しかし、ある時、「だから何だ?」という思いが胸をかすめ、鉄道への関心を越えてしまっていた。その時の感覚が蘇り、なんとなく「頽落」を理解した。鉄道が好きなことには変わりはないが……。
「空談、好奇心、曖昧性」が「頽落」の根本様式とある点も、大いに考えさせられた。ただ、この性格を通してしか、生きていけないような思いもあって、一歩も動けない。しかし、「絶望」はしていない。いいかげんな「希望」も持てない。ここで一歩前進するしかないか、という感じである。

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新五女山第2弾
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